そんなに急いでどこへ行く

面白い話ができたらと思っています。

"普通フォビア"の危険

1.はじめに

中学生の少年がヒッチハイクアメリカを横断しようとしたことがツイッターで話題になっている。

もちろん危険が伴うものだし、どうやらそれゆえに帰国することになったそうだが。

 

彼は「たくさんの人に勇気や夢を与える」ためにこの旅行を企画したという旨のツイートをしている。

誰に影響されたのかはわからないが、もし彼を"操作"してこの旅を実行に移させた悪い大人がいたのなら直ちに縁を切るべきであって、それで終わることだと思う。

 

だが、彼自身が本当にそう思ったうえでこれを実行していたとしたら、もっと問題である。

 

旅をしたいという気持ちはわかるし、ほかでもない僕自身がリュック一つで国内外のあちこちをうろつくのが大好きなので、そこを批判するつもりはない。

 

だが、純粋な"旅に出たい"という気持ちではない何かが"旅立ち"のきっかけになるのなら、少し立ち止まるべきだと思う。

 

今回は、中学生のアメリカ横断ヒッチハイクの話題から"普通フォビア"について考えたい。

 

2. "普通"を厭う人々

中学生の少年を危険な旅へと駆り立てたものは「勇気や夢を与える」という彼なりの使命感であった。

「勇気や夢」を与えるならば、日本でボランティア活動でもしたほうがよほど活躍できるし、言い方は悪いが、生産的である。

 

なぜ旅、それも「アメリカ」で「裸足」で「ヒッチハイク」だったのか。

 

そこには「"普通"でありたくない」という意識があったのではないか。

これをここでは、"普通フォビア(恐怖症)"とでも呼びたい。

 

"普通フォビア"では、"普通"でいることは自らの価値を否定するように感じるのだ。

 

何か面白いこと、他の人がやっていないことをしたいという気持ち、すなわち承認欲求だとか自己顕示欲だとか、そういうものだろうと思う。

何か自分にしかできない、面白いことをしないと埋もれてしまう、と。

 

最近、世界一周とかをするアカウントをたくさん見受けるようになっているが、皆インスタ映えとか、とにかくSNSで目立つことがその行動の原動力となっていると感じる。

このことからも、"普通"で世の中に埋もれたくない、と感じる人の原動力は承認欲求とか自己顕示欲とか、もっというと「マウンティング」でしかないのではないかと個人的には思っている。

 

「すごいね」が燃料であり、それを食って生きているのだ。

 

3."普通フォビア"の問題点

もちろん、どんな動機であれチャレンジをしようという姿勢は素晴らしいと思う。

今いる居場所や自らのポジションを捨てて飛び出していくことは勇気のいることだ。

それが彼や彼女の人生の糧となることもあるだろうし、その姿を見て結果的に"勇気づけられる"人もいるかもしれない。

 

そもそも、僕自身は出る杭を打ちたいからこんなことを言っているのではないし、「人間は皆"普通"であれ」「現状に満足せよ」と説く気はさらさらない。

 

だが、"普通"からの脱出には危険が伴うことも承知しておいてほしい。

 

ツイッターで一時期、は○ちゅう氏やイケ○ヤ氏のような人々が「脱社畜サロン」のようなことをしていて例のごとく燃えていたのを観測した。

また、大学生はわけのわからない投資詐欺に引っ掛かり「まだバイトなんかしてるの?」などとこれまたわけのわからないツイートをしてネズミ講のように仲間を増やしている。

 

彼らは、多くの"普通"の人に対して「"普通"から脱出せよ」と説く。

あたかも普通であることが"悪"であるかのように。

 

"自分でなきゃできない事をせよ"

"現状で満足するな"

"普通じゃないことをしよう"

と説くのは何も彼らだけではない。

よく、AIの時代が来るから今の人間の職は奪われると言われている。

それはもちろん否定できないところはある。

しかしそれで、AIに職を奪われた彼や彼女の"存在価値"が落ちるかというと決してそうではない。

人間の価値は不変であり、どんな人間であっても存在していることは許されている。

"普通"でも生きていて良いはずである。

 

もちろん、彼や彼女にしかできない高度な技術や能力があればそれで良いだろう。

"普通じゃない"ことを否定はしない。

しかし同時に、特別な技術が無いからといって、彼らの生き方が否定されて良いわけではない。

例えば、(挙げたらきりがないが)近所のスーパーの店員や工事現場の作業員、バスの運転手などなど、有名人ではないいわゆる名も無き"普通"の人たちが社会を動かしていて、当たり前だが彼らの存在は必要不可欠だからである。

 

ヒッチハイク少年が「こんな面白いことをする"特別な自分"の姿を見てもらいたい」がためにそれをやろうとしていたのなら、そんな「特別じゃなきゃダメ」という危険な価値観の餌食だったのだなと感じた。

 

悪い大人たちは、それを含めた多くの「今の自分は特別じゃない。だから変わって自分の価値を上げなきゃ」という意識に漬け込んで、他人の人生を食っているのである。

 

これが、やれ世界一周だの起業だの投資だのカンボジアだのでもって、実際は平凡で特別な能力もない若者たちを「特別」たらしめる(と本人たちは思ってる)行動へとつながる。

いかに他者より優れるか、良く見られるか、だけが行動の全てなのだ。

 

もっとも、結局みんな揃って似たようなことをしているので「"普通じゃない"」「他人と違うことがしたい」が、上に挙げた投資だの起業だのといった"一種の型"に収まっているという事実は皮肉なことだが。

 

少なくとも、意識高い"系"の人々と"キラキラ系インスタグラマー"みたいな人々の行動はこんなことが根底にありそうだなと思った。

 

4.誰にでもある

ここまで"普通フォビア"の例として挙げたのは、キラキラ系バックパッカーとかそういう陽キャラ的な人々だった。

 

だが、これは別に陽キャラに限った話でもない。

 

ツイッターにいるオタクたちも同様だ。

おかしなことをして、人から「あいつは面白いな」「またなんかやってる」と言われたい、という承認欲求を満たすために変なことをしたり犯罪に至るケースも見受けられる。

また、いわゆるポリコレに反する、差別ともとれる過激な発言をして、あたかも正論であるかのように振る舞う人間も少なくない。

これらも、"普通"から脱したいという意識の表れとも言えると思った。

 

結局のところキラキラしてるかとか金が掛かってるか、くらいなもので実際は前述した人々とあまり変わらないものだと感じる。

 

他人を楽しませたり自分を目立たせることが"目的"で、(例えば旅とかの)"行動"がその手段になるようなことは、全てを否定するつもりはないが苦しくなるのでは、と思う。

芸能人や、最近ではユーチューバーがその役割を果たしてくれているので、多くの"普通"の人は普通に楽しめば良いではないか。

 

個人的に、これは自分にも十分当てはまることなので自戒の念を込めてこんなことを言っている。

 

5."普通じゃない"のやり方

結局のところ、今回のこれも仮に成功していたとしても旅行という"普通の行為"に"人を勇気づける"だとかそういう意味付けをしたにすぎず、何にもならないのがオチだっただろう。

他人のために何かして助けたいと思うならボランティアをしなさい。

 

一度きりの人生だが、一度きりだからこそ死なない努力はすべきだ。

マリオと違ってゲームオーバーしても再挑戦することはできない。

よく調べたり、リスクを承知したうえで挑戦することが「すごい」のであって、単なる無謀な挑戦はすごくもなんともない。

 

一方、「諦めること」も勇気のいることだ。今回の少年は頑なにならずに帰国したそうだが、その勇気は褒めるべきではないかと思う。

 

"普通じゃない"は"普通"が出来たうえで成り立つものだといえる。

大学を中退して旅に出るとか、よほど覚悟があるなら勝手だが、僕は"大学を出る"という"普通"がこなせたうえでの"普通"っていうのが本当に「すごい」んだと考えている。

 

新しいことや面白いことをしている人の後ろ指を指すような真似はしたくない。

だが、ほかでもない自称「普通じゃない」系の人間たちが、そんな人たちにとっての迷惑になっていることが問題だと思う。

そして最大の問題は、本人たちに自覚がないところだとも思う。

 

いすわれにせよ、旅のリスクと人生のリスク、どちらも考えてこの長い旅を続けていこう。