「選挙があるのにデモをするのは意味がない」は本当か
「香港でのデモは正しい」けれど…?
香港で「逃亡犯条例」に対する反対デモが激化していた。
中国本国への容疑者引き渡しを可能にするこの改正案については、香港にいる中国に対して反感を持つ者を犯罪者として送還することを可能にする、として反対の声が沸き上がり多くの人々を巻き込んだデモに発展した。
ご存じの通り香港は一国二制度をとっている。行政の長である行政長官は、産業界の代表や議員からなる選挙委員1200人による投票で選出され、中華人民共和国により任命される。*1
さらに、その選挙委員の選出は香港の一部の住民にのみが可能であり「間接制限選挙」であるといえる。
これについても香港では度々反対のデモが起こっており、5年前には民主的な選挙制度を求めた「雨傘運動」が展開された。
さらに、このデモ隊に対して香港警察が排除行動に本腰を入れているさまがインターネットなどを通じて世界中に発信されることとなり、「天安門事件の再来」とまで言われる状況となっている。
さて、こうした香港の状況については世界中から応援する声が根強い。
(もはや単なる)権威主義体制を敷く中華人民共和国の脅威は、香港や台湾のみならずアジア各地の民主主義国においても共有されている。
この日本でも先日、香港の動きに共鳴して東京の渋谷でデモが行われたようである。
香港のこうした状況は思想の右左を問わず手放しで応援される一方、「便所の落書き」もとい言論のプラットフォームたる我が国のツイッターではデモ行動の「正当性」が問われている。
以下、主要なツイートについて要約したものを引用する。
日本のデモと香港のデモは別物だ。香港には選挙がなく*3デモでしか民意を示せない。デモ隊に対して非人道的な弾圧が行われており、人口700万の都市で百万人単位のデモが起きており、一方で日本は首都圏に3000人しか集まらない。
とか、
民主主義を守るとかいいながら選挙のない国とある国のデモを同列に語るって民主主義を否定してるに等しい。
とか、
不満があるなら選挙で有権者が合法的に変えられるから民主主義国家で暴力的デモをする必要がない
といった意見が、有力なネット論者の間でなされている。
一見するとなるほど、と思えかもしれないが果たしてこれは本当なのだろうか。
「選挙のある国」でのデモや市民運動の意味と必要性について考えたい。
民主主義において「選挙」が果たす役割
民主主義民主主義とは言うが、民主主義っていったい何なのだろうか。
民主主義について少し考え、選挙が民主主義において果たす役割について説明する。
民主政治と呼ばれるものには大きく分けて「直接民主主義」と「間接民主主義」がある。
近代以降において民主主義とは「間接民主主義」を指しているものといえる。間接民主主義は代表制民主主義と呼ぶこともでき、「代表」たる議員が私たち市民に代わって立法活動を行う。
さらに、自由主義との関係では、それと結合した「自由民主主義」という体制であるといえる。
一方、かつての古代ギリシアでも民主制が発達していたが、市民が一つの場所に集まったうえで直接議論し立法活動を行う「直接民主主義」の形であった。
市民が直接議論することができるのは間接民主主義よりもはるかに優れているけれど、人数が増えれば実現は難しくなるし、少人数のコミュニティでのみ実現が可能な形といえるだろう。
さて、間接民主主義になくてはならないのが代表たる議員であり、その選出を行うのが選挙という営みである。
選挙においては市民は候補者をいわば「代理人」とみなし、自らの利益を代表すると考える者に票を投じて議会へ送り込む。そこでは人民の意思を票という形で表すことができるし合理的な方法であるといえよう。
だが、選挙、ひいては代表制民主主義は「ベスト」なのだろうか。
基本的に選挙は、単純に言えば「票を多く得た者が有利」になるものである。政治活動は、(地方議会などはそうとも言い切れないが)個人の力だけでは難しいから、政治集団としての政党が現れることになる。
そのようななかで、政治家はなるべく多くの票を得るために、自らの所属する利益集団はもちろん所属する者の数の多い社会集団の選好に合うような政策を打ち出していくことになる。
例えば、昨今シルバー・デモクラシーと呼ばれる現象が生じているのは、高齢化のために高齢者の「数」が多く、高齢者にウケる政策を打ち出すことでより多くの票が得られるためである。
一方、社会のなかの利益をまとめ上げ、政党や政治家が「競争」し合うことにも政治のダイナミズムはある。
前の選挙で当選し議員となった政治家の「業績」によって、次の選挙で彼や彼女に入れるかを判断する投票(業績投票)もあるし、政治家にとって「選挙での当選」がモチベーションになるから為すべき職務に励むことにはなるだろう。そうした点では選挙の価値を見いだせる。
「多数」が優先されるシステムでは確かに「より多くの人」が好む政策を選択することになるかもしれないが、そこではその政策を「好む」と思わない人の意見は反映されないこととなり、場合によっては彼らの権利を侵害することにつながる。この状態をトクヴィルは著書『アメリカのデモクラシー』のなかで「多数の暴政」と呼んだりした。
むろん、政党などの集団は社会のなかの様々な利益をまとめ上げ 競争し合うことも政治のダイナミズムといえる。
「人民の人民による人民のための政治」とは言うが、本来「人民」という言葉は極めてヴァーチャルなものである。
例えば、今あなたの隣に住んでいる人とでさえ完全に意見が一致するわけはないのに、国全体のレベルで意見が一致し同質的な集団になることはあり得ないだろう。
もっとも、「上から」の力により無理やり「同質化」させた国家体制もあり、それは全体主義と呼ばれたりもしたのであった。悪名高いナチス・ドイツも選挙によって登場した体制である。
複数の選択肢から選ばれた「一つの答え」は、あくまで「多くの人」により選択されたに過ぎない。ほかの選択をした人(死票になる)や、選択自体をしなかった(棄権)をした人だっていただろう。つまり、現在の日本の国会議員は全国民から選ばれたというわけではないのである。*4
比例代表制が導入され小政党の候補者が選出される可能性が現れてはいるものの、「選挙で選ばれた人」がその事実だけをもって、それが彼や彼女への批判を妨げる理由にはならないだろう。
ルソーは「イギリス人は選挙の期間は自由だが、選挙が終われば奴隷の身分となり、なきに等しい存在となる」と指摘しているが、本来そうであってはならないはずなのである。
それでは、現代において「選挙と選挙の間」に「民主主義」を実現する方法はないのだろうか。
「デモ」と「選挙」は矛盾しない
一般有権者は、政治や経済など複雑な事柄を理解できないので有権者が公共の利益に合致する決定を合意によって導くよう求めるのは無理である、としたのはシュンペーターである。
彼は人民の能力という点に着目し、市民に合理的な決定をする能力がないとする「エリート主義的民主主義」を展開した。デモクラシーとは「人民の統治」ではなく、「政治家の統治である」としている。
もっとも、こうした発想自体は古代ギリシアのプラトンも述べており、民主政治それ自体に対しても懐疑的な者はいつの時代も存在していたのだ。
さて、少しズレてしまったが、こうしたシュンペーターらのエリート主義的な考えを批判し「参加民主主義」というアイデアを理論化したのがぺイトマンだ。
ぺイトマンによると、もはや市民はその知識水準も向上しエリートによる支配を一方的に受ける存在ではなくなったために政治過程は今や多様な市民の声を吸収できなくなっているのだという。
市民の参加により政治社会は安定化するし、さらに、その過程において個々の人間に対する教育効果もある、としている。
自由民主主義体制が個人や個人的利益を中心とした「競争」で成り立っていることから、「薄い民主主義(シン・デモクラシー」になっていると指摘したのはバーバーである。人々が利己主義に陥ることで互いの信頼が揺らぐことで社会が不安定になり、「公共の利益」とか「シチズンシップ」という考え方が成り立たなくなる恐れがあるのだ。
それゆえバーバーは、市民が政治に参加できる仕組みを作るべきだと主張した。
ぺイトマンとバーバーはともに、市民が自分の利害だけでなく広く社会のさまざまな利害も考慮に入れるべきだとしている。
市民の直接参加は、「利害」と「競争」を軸に置く自由民主主義が拾いきれなかった政治課題の回収をも可能にしているのである。
社会のなかの特定の利益を代表する者たちが選挙を通じて競争する点にも政治のダイナミズムがあることは先述の通りである。
だが、やはりそうした競争のなかではやはり利己主義に陥ったり、そもそも競争の「議題」として乗らない問題も出てくる。
さらに、その競争と競争の間に新しい課題が浮上することもあるだろう。
政治家が、社会に浮上した課題を課題として認識することで「政策」が始まる。
デモや抗議活動は、市民が直接政治的な発言をするという参加民主主義としての価値と、政治課題の存在を発信し次の選挙で「争点」となるように仕向ける機能があるといえる。
そして課題を課題として認知した政治家は、次の選挙でその課題についての考えや解決策を彼や彼女なりに表せばよい。
普通の日本人たちは「デモじゃなくて投票すればよい」とは言うが、デモと選挙はある意味でセットの存在と考えることもできるだろう。
おわりに
ー香港のデモはよくて日本のデモがダメ、な人たちー
以上の通り、現代の代表制民主主義の社会においては選挙という営みとデモという行動は互いに矛盾せずに存在しうる。
だが、どういうわけか「日本は選挙があるからデモなどすべきでない」「政治は選挙(のみ)で変えればよい」という議論は常にネットのあちこちに転がっている。これに対する反論(にもなっていないような当たり前のことではあるが)は上で述べた通りである。デモと選挙は別々の存在ではないし、どちらも民主主義社会において必要な「自己統治」のための手段といえる。
ではなぜ、日本でのデモは「ダメ」なのだろうか。
日本では年金が今まさに「消滅」しようとしている。あろうことか、国民に対して日本政府が「自己防衛」をお願いする段階に入っている。
これに対し国民(それでも参加者はたったの数千人なのだが)は「年金返せデモ」と称して都内を行進している。
さらに、この香港での動きに対し、かつて特定秘密保護法制定時に国会前で活動していた「SEALDs」のメンバーが都内で抗議活動を行っているようだ。
ほかにも、沖縄への米軍基地設置を強行した政府への抗議なども日夜行われている。
さらに、ネット上では女性の性犯罪被害に関する「#Metoo」運動が世界的に広まっているし、パンプスの事実上の強要に反対する「#kutoo」運動も国内では展開されている。
これらの動きについて、冷笑系アカウントをはじめとする「普通の日本人」の多くは極めてドライな反応をするのである。具体的な例は、上で引用した通りである。
なお、「香港のデモは非暴力的・日本のデモは暴力的」という話だって、我々がその場にいてすべてを見ていない以上それはフレーミングされた情報でしかない。
インターネットを介して見える情報とて、やっぱり限界があるのである。
社会運動に対して冷笑的な態度を取る者は、彼や彼女自身が、自らが現実主義者であるというスタンスを取っているから現状の肯定に絶対的な価値を置いており、社会の価値観の変容というものを気持ちよく思わないのだろう。また、そうとまではいかなくても、そういった活動の後ろ指を指すことにある種の快感を覚えているのかもしれない。
あくまでも憶測なのでこれ以上は控えるが、少なくとも、現行の社会体制により不利益を受けている人間がそれを変えようと動くことを、直接的な議論をしようともせずただ「現行体制を受け入れろ」と言うことしかできない(声がやたらとでかい)人間たちが、これまでの社会の変化にとって足かせとなってきたのは事実だろう。
アメリカの公民権運動は、黒人のローザ・パークスがバスの座席を白人に譲らなかったために「人種分離法」違反で逮捕されたことを発端に始まった。
そこから全米を巻き込んだ活動となった公民権運動の成果は、ご存じの通りかと思う。
彼女が「現行体制を受け入れ」ていたら、もしかしたら黒人への差別は平然と行われていたのかもしれない。
誰かが動かなければ社会は変わらない。
むろん、そこに選挙という仕組みが媒介することで変化することもあろう。
だが、選挙は万能薬ではないし、その「競争」のあり方にも限界がある。
だからこそ、デモや市民運動など市民の直接的な参加による政治活動も一つの形としては存在すべきだと思う。
香港のデモを肯定し日本のデモを否定する人間は、結局、「中共(大陸中国)」に対する憎悪がその発想の根源にある。
そんなレイシズムが「香港加油」の原動力にあるなら、それは民主主義に対しても香港に対しても失礼なのでただちにやめていただきたいと思う。
やめろ。
【参考文献】
・川崎修ほか『現代政治理論(新版)』有斐閣アルマ(2016)
*1:https://www.asahi.com/topics/word/%E9%A6%99%E6%B8%AF%E8%A1%8C%E6%94%BF%E9%95%B7%E5%AE%98%E9%81%B8%E6%8C%99.html
*2:「「香港加油!」 デモに連帯して渋谷のハチ公前広場で抗議集会」https://mainichi.jp/articles/20190614/k00/00m/040/009000c
*3:上で述べた通り、完全に「無い」というわけでもない