そんなに急いでどこへ行く

面白い話ができたらと思っています。

お知らせ

こんばんは。

お久しぶりです。長らく更新しておらず申し訳ありませんでした。

 

大学3年生から更新してきたこのブログですが、移転し、趣味も含め全般的な話題に触れる新しい形で更新していこうと考えています。URLは以下の通りです。

引き続きご覧いただけると嬉しいです。

jimera.hatenablog.com

 

今後は、原則としてこのブログは更新しません。静大再編問題の経過記録という意味もあると思いますので関連のものは原則削除せずに置いておきます。

 

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

一昨日、犬が死んだ

一昨日の夜、犬が死んだ。

我が家の全てを見てきた犬だ。

小さい白い犬は、15年の生涯を終えた。

 

2004年、我が家に小さくてふわふわな白い犬が来た。ポメラニアンのメスだ。

クリスマスに来たので名前は仏語の「ノエル」になった。

我が家では「ノンちゃん」と呼ぶようになった。

 

その日のことはよく覚えていない。

母が言うには、私は当時小学校低学年ながらかなり病んでいたのだという。

ノエルを膝に乗せた私は、「やっぱり生きていきたいと思う」と言ったのだという。

 

ノエルは特に、父によく懐いた。母もリスペクトしていた。

幼稚園に通っていた弟は下、私は「対等」か少し上に見ていたと思う。

 

家族は北海道に渡った。

 

冬に外へ連れ出すと、ふわふわの白い犬は白い大地をぴょんぴょんと駆け回った。

部屋の中でも駆け回った。

家族が「ノン、ストップ」と注意すると、言われた通り「ノンストップ」で走り回った。

 

父が死んだ。

 

その直前、父はノエルの散歩に出かけたのだという。

父が最後に何を語ったのかは、ノエルしか知らない。

ノエルが、父が帰ってこないことをどう思っていたのか、知る由もない。

 

父を失った家族は、東京へと戻った。

ノエルは、頻繁に咳をするようになった。

心臓が悪かったそうだ。

 

私は大学に入り、実家を離れた。

帰るたびに、「おかえり」という顔をしてきた。

我が家の中心にはいつもノエルがいた。

 

心臓の病気が悪化した。

10年以上生きて、老衰もあったようだ。

ある時、突然倒れた。

 

母はそれから「無理矢理に延命させるよりも楽に死ねるほうが幸せだろう」という方針を取った。

半年前のことだ。

病気は悪化するばかりだが、ノエルは部屋中をぴょこぴょこと歩き回っていた。

 

母から「ノンちゃんがそろそろかも」という連絡があった。

先週の金曜日のことだ。

私は東京へと向かった。

 

寝たきりのノエルはほとんど動けない状態で私を待っていた。

「ノンちゃん」と声をかけると、目が少し開いた。

 

母は昨晩は徹夜で面倒を見ていたのだという。もう一晩の徹夜を覚悟して、仮眠していた。

弟は、風呂に入ると言って消えた。

私は、一人でノエルを見ていた。

スマホを見ていたとき、「コッ」という音がした。

口が開いていた。息はしていなかった。

 

最後まで我が家の真ん中にいた。

その旅立ちの瞬間は、誰にも見せなかった。

けれど、最後に私が帰ってくるのを待っていてくれたのは確かだ。

 

ボロボロになった肉体を離れて楽になっているだろう。

今頃、大好きな父と一緒に笑っているだろう。

 

15年間、お疲れ様でした。

そして笑顔をありがとう。

静岡大学は、ただちに学生説明会を開催するべきだ

石井学長の「ゼロベース発言」から2か月が経とうとしている。

あれから静岡と浜松の両キャンパスで対話集会などが開催されたが、依然として状況が良くなっているとはいえないと考える。これは別に、賛成派にとってとか反対派にとってとか、そういう次元の話ではない。

結局、静岡大学当局がろくに説明ができていないからこそ学生や教員、地域社会が大混乱しているだけなのではないか。

ここ数日感じているモヤモヤを吐き出してみたい。

 

2019年3月に静大と浜医大の間で法人統合と再編についての合意が締結されるが、この直前に教員など一部の人が問題点を指摘しSNSなどを中心に拡散された。その後、県内メディアを中心に取り上げられることとなる。

この段階で、学生に対する”オープンな場での説明”というのは一切なかった。

そして4月、5月、6月…と過ぎてゆき、気づけば11月も終わりに近づいているが、未だに「静岡大学が主催した」「誰でも参加できるオープンな説明会」は実現していない。

 

「10月23日に、静岡キャンパスで対話集会が開催されたのではないか」と思われる方もいるだろう。だが、実は事実上は農学部の西川さんが運営したものだったのだ。浜松キャンパスでも同様の集会があり、あちらがどのような形態を取っていたかは詳しく存じ上げないのだけれど、少なくとも学生の申し出が無ければ大学や学長は動くことはなかっただろう。

 

学長は「”学生の側から”聞きたいという声があれば、集会や説明会等は開催することができる」というスタンスをとっている。*1つまり、聞きたいという声がなければ学生に対して説明する義務などはないという考え方なのである。

こういうときにだけ「学生の主体性」とやらに期待するのは、ハッキリ言ってズルいとしか言いようがない。

 

学長や大学の見解はこうだ。

「もし、春の段階で説明会を開いたところで学生は興味がないだろうし誰も来ないだろう。アリバイ作りだと言われるだけだ」*2

まず、”学生の関心”の限界を一方的に決めつけるのは、高等教育機関たる大学、そしてそのトップの考え方として如何なものなのか。誰も来ないという根拠はどこにもない。

そして何より、それが説明しなくて良いことの理由にはならない。

あと、アリバイ作りだと叩かれるのが怖くて開かなかったとか、一体何に怯えてるんだろうか。別にやましいことがなければ堂々と説明できますよね。

まさか、学生に関心を持たれたら都合が悪かったのだろうか。まさかね…笑

 

実際、大学や学長が説明をしなかったことによる弊害は今になって表れている。これまでも何度かシンポジウムだとか集会だとか、そういった類のものが開催されてはきているが、ことごとく議論が噛み合っていないように見受けられるのである。

それは、賛成とか反対とかの立場を問わず、である。

私自身、3月の段階では「まず大学が事実関係をきちんと説明してから議論すべきだ」という考えを持っていた。しかし、結局それがなされることなく勝手に事が動いており、仕方がないのでメディアなどを通じて得た情報をもとに批判を繰り返しているわけである。

な学長ブログが「情報」として機能しているかは疑わしい。結局、あれも大学の公式見解というより学長のお気持ち表明に近いからである。

 

大学当局の内部にも、頭のいい、分野別のプロがいることだろう。例えば「経営」とか「運営」に詳しくてセンスのある人とかね。何も、経営の専門家なわけでもない学長がすべて説明しなければならないというわけではない。

経営に詳しい人が出てきて、きちんと説明して学生や教職員、地域社会が納得できるようならこの再編統合はスムーズに進んでいたはずである。学長の「お気持ち」ではない、データに基づいた説明を、誰に対しても開かれた場で出来ていない時点で、混乱が起こるのは必然的だったのだ。

 

こんな状況で再編統合を進めても結局、混乱が続くだけだ。そして、仮に二つの大学に分かれたとしても、「喧嘩別れ」のような形で両大学の間に確執が残ることは避けられない。

賛成や反対を問わず、冷静に立ち止まって考えるべきだ。

 

先日、吹奏楽団が声明文を出した。悲痛な訴えである。

部活動やサークルが、学校全体のあり方を変えることは難しいかもしれない。だが、静岡大学の価値や文化を創造している主体、つまり学生に対しての「リスペクト」が一切ない状態で進められる再編が、どのような結果を生むのかは想像に難くない。

 

大学の経営に学生は関係ない、口出しするな?まあ、そうかもしれないね。

でもダメな経営をしたらダメな教育になるし、ダメな教育を受けた学生はダメな人間になる。

私が社会人になった何年後かに、「静岡大学の卒業生です」と名乗ってきたダメな人間を、私は後輩とは認めたくない。だから、時期的には直接影響を受けなくても、私は学生は経営にも文句を言えると思っている。

 

少しズレてしまった。

が、少なくとも、このままで納得はできないし、学生も納得してはいけないと思う。部活動やサークルの今後を左右するし、地域社会にも影響することだ。

学生に対して、学長や大学側は、「君たちの関心がなかっただけだ」とでも言わんばかりの態度だが、悪いのは関心を持たせなかったほうだ。

 

静岡大学は、ただちに学生に向けた説明会を開催するべきだ。

*1:10月23日の対話集会において、そのような旨の発言をしている

*2:これも静岡の対話集会で言っていましたね

再編反対派よ どこへ行く

今年の3月、桜の蕾も開こうかという時期に突如「静大再編問題」という嵐が、この静岡大学のなかで吹き荒れた。それから東西両キャンパスを巻き込み県内メディアを騒がせる話題とはなったものの、気づけば、定年坂の銀杏が踏みつぶされて強烈な臭いを放つ時期になってしまった。

 

幾度に渡るシンポジウム、それに先日の対話集会といった集まりの開催に加え、メディアなどでも取り上げられる機会も少なくはなかった。

 

私自身も当初から問題視していた一人として、再編問題について考えることが多かった。

 

しかし、だ。

私自身は、この再編問題と、それについての議論について長らくモヤモヤとした気持ちを抱いていた。

それは、いわゆる「反対派」の欠陥である。

再編反対のスタンスで動いている先生方や関係者の方にはお世話になっているし、声をあげてくれていることには感謝の気持ちがあるのは事実だ。

 

だが、このままだと前に進まない、と私は考える。

そう考える理由と、私見ではあるが今後持っていきたい議論の方向性について提言していこうと思う。

 

1.反対派の問題点

まず、反対派の問題点を端的に述べると、①何に「反対」なのかがわからない。それゆえの、②「着地点の不存在」であると思う。

 

①何に「反対」なのかがわからない

この再編問題において、ひとくちに「反対」と言っても人によりグラデーションがある。例えば、「統合には賛成だが再編には反対」という人とか「統合にも再編にも反対」という人、さらには「浜松医科工科大学という名称に反対」という新種も出現している。

これらはいずれも「現行案に反対」であることに変わりはないが「何に反対しているのか」が全く異なっている。これでは議論がかみ合わないのは当然である。もっと言うと、何かしらの反対を訴える人たちが本当に問題の本質を理解しているのかすら疑問ではある。

「再編問題」の何を問題としたいのか、を反対派諸氏は今一度整理する必要があるのではないか。

 

②着地点の不存在

そして、上で述べたことを原因として、「現行案に反対する立場」が「何を目指しているのか」を明らかにできていないのが、最大の問題だと考える。

 

すなわち、「現状維持」なのか「改革は許容するが現行案に反対」なのか「新名称に反対」と、求めるものが全く異なっているにも関わらず同じ「反対」という立場の空間にいるから、わけがわからないのである。

学長を擁護する気は1ミリたりともないが、確かに、反対派は何をしたいのかが全くわからない。一部の人々が勝手に騒いでいるように映るのも仕方のないことだと思う。

 

学長および推進派の目指している大学再編案がきちんと詰まっておらずメリットの根拠などがガバガバであること、新名称も情報学部の存在を軽視していることなど、問題は少なくない。

だが、その問題のある現行案を、仮に反対派が「食い止める」ことができたとして、結局、その「食い止めた向こう側」はどうあってほしいのか。それが見えてこないのだ。

個人的に、よく野党へのバッシングで用いられる「反対するなら代案を」という発想は大嫌いだ。だが、この問題の性質を考えると、反対派の側にもある程度の「大学のあり方」をイメージできているほうが強いのではないかと考える。

2.手続き論で攻める時期は過ぎた

私自身も散々批判している点ではあるが、石井学長や推進派の拙速な決定が問題となったのは事実である。きちんと合意形成を図っておけば、ここまで大荒れにはならなかっただろうし、学生や地域社会に対しての説明責任が不十分だった点も大いに問題だったといえよう。

学長の「学生はこの問題の当事者ではない(口出しするな)」というスタンスだとか、静岡市を軽視した発言などは大いに問題であるといえる。

 

だが、そのような「拙速である」という問題点は、それ自体を理由としてこの再編を止められるものではなくなった。確かに、その拙速さゆえに学長らにより驚くほど程度の低い現行案が進められようとしているのも事実だ。そして、それはこの問題が顕在化した春ごろであれば通用したといえよう。

しかし、もう11月になり、情報はある程度揃っている。

SNSやマスコミを通じてはもちろんだが、学長自らが「学長ブログ」なるコンテンツを通じて、お気持ちを表明するようになった。いずれの媒体も価値のあるものかどうかは別として、「静大の再編統合についての情報」であることに変わりはない。

ここにきて「情報共有が不十分であった」と過去のことを批判するのは、もはや建設的ではないのだ。なお、私自身も、この点については反省すべきだと考えている。

 

一方で、学長やその周辺が再編を強行したことや、合意形成が十分に図れておらず結果的に”ゴタゴタ”が生じたという事実自体は「静岡大学史」に残るものとして未来永劫批判していくべきものではないかと思う。

国立大学の学長が大学の経営についてワンマンで進めようとしたことについては、日本の大学史における悪しき、恥ずべき歴史として語り継いでいく必要がある。

そして、今後二度とこのようなことが起こらぬよう「反面教師」の先行事例として共有されるべきだ。

 

しかし少なくとも、2019年11月現在の「再編反対」の材料として利用するにはあまりにも”弱い”と感じる。過去ではなく、これからどうするか、を考える時期に来ている。

3.これからどうしたいか

ここまで、「反対派」について現状を分析したうえで、自分に対するものも含めて批判してきた。ここからは完全な私見である。私自身の考えを明確に述べていきたい。そのうえで、これからの静岡大学が「どうあってほしいか」を提言したいと思う。何度も言うが、あくまでも私見である。根拠はない。

 

※①は「何に反対か」、②は「着地点」についての言及である。教職員含め、この問題に関心のある方は、「①何に反対か」「②(自分にとっての)着地点はどこか」を明確にしてほしい。

 

静大の改革には賛成。しかし…

私は、「静岡大学の改革」自体には反対しない。すなわち、法人統合自体に問題があるとは思っていない。

というのも、時代により大学を取り巻く環境は変わるものだし、(一法人複数大学という制度自体の問題性は別として)そんななかで、静岡大学浜松医科大学がその一法人複数大学という制度を活用し静岡県内で一つの法人として”統合”することは一つの道として問題はないのではないかと思う。

もっとも、3月の段階で法人統合自体は決定している。*1

それを覆すことは難しいし、その必要はないと考える。

 

何に反対なのか。

静岡大学の静岡キャンパスと浜松キャンパスがバラバラとなりどちらも規模が縮小されるだけ」の現行の案には明確に反対である。さらに、そんな現行案が反対派や静岡市の意見もまともに聞かずそのままの姿で進められようとしていることも問題だと感じている。

 

考えてみてほしい。

静岡に4学部、浜松に3学部の小さい国立大学ができるのだ。

いくら法人が同じだとはいえ、常識的に考えて何でも大学単位で考えるものだ。名古屋大学岐阜大学が法人統合を決定し2020年より新法人が設立されることとなったが*2、人々はみな岐阜大学名古屋大学を同じだと考えるだろうか。

再編によりメリットがあるとされる浜松市側も、それが”本当のメリット”なのかは、今一度考えるべきだと思う。「静岡大学」を失うこと*3が、教員や学生はもちろん浜松市や県西部の地域社会にとってどう働くかは、じっくり考える必要がある。

それは新大学の名称が「浜松医科工科大学」ではない、まともな名前だったとしても同じである。「やらまいか」は、学長の暴走の免罪符ではないはずだ。

 

②今は立ち止まるとき

私が求めるのは、この「再編統合の延期」である。それも5年とか10年とかのスパンのものだ。その間に熟議を重ね、きちんと計画を「練り上げる」必要があると考える。今は「立ち止まるとき」なのだ。

 

合意形成がきちんと図られておらず、反対意見がわらわらと湧いてくるような案が「きちんと詰まっている案」だとは思えない。*4

 それゆえ学長や推進派は、きちんと根回しだとかをした上でメリットを説明できるような案に練り直してくる必要があると思う。要するに、 出直してこいということだ。

 

もちろん、意見は多様だし100%の賛成が得られるとは考えられない。だが、現在のように、ろくに練られていない案が無理やり進められるよりかは、学内外で合意形成をきちんと図られ皆が納得し妥協できる案のほうがよほどマシである。何より、透明で適切なプロセスを経ることができるのは大きい。もっとも、そんなのは当然のことなのだが。

 

また、将来的に、具体的な名前は挙げないが静岡市内の(公立・私立問わず)大学と統合したり、経営や教育面で協力できるのなら「総合大学」として静岡キャンパスは成立しうるだろうし、浜松においても同様であろう。もちろん制度上の壁やお互いの大学のアイデンティティの問題などもあるから難しいだろうし、これが正しいかはわからない。だが、静岡と浜松の両キャンパスを切り売りするだけの中途半端な現行案を推し進めるくらいなら、これくらい面白いアイデアを見せてほしい。

 

さらに、静岡市との協議会の設置は不可避だ。それは、先日の市議会の質問における「ゼロベース発言」のなかでも明らかになったことで、実際問題すでに学長らが静岡市を無視することが事実上不可能になっている。

私は、この協議会を「可視化」すべきだと考える。それも、市民、県民全体に対して開かれたものとして行われるべきだ。それこそが、学長自身が今年春の段階で果たせなかった「説明責任」を実現するものだといえるし、ここで逃げたら単なるアリバイ作りでしかなくなる。

これまでの学長の態度は批判されて当然だといえるが、ここにきて「誠意」を見せることができるかがカギではないかと思う。過去は変えられないが未来は変えられる。

 

”大人の事情”があるから急ぎたいのはわかる。だが、大学の未来を変えるような重大な決定を、この短期間で下してしまうのは普通に考えて危険ではないか。

 

この延期している5年~10年の間に、きちんと熟議をし納得のいく結論を導き出すことが、最も簡単で皆が納得のいく解決策だと考える。学長は「ゼロベースとはまとまっている現行案をもとに、ほかの人の意見を聞いてやることだ」と仰っているが、単純な延期は現行案自体を否定するものではないから、ある意味でこの「延期」は学長の言うところの「ゼロベース」とも合致する。

もっとも、そのころには石井氏も学長の座を退いており、彼の手柄ではなくなってしまうのだが。

 

もう一度言うが、今は「立ち止まるとき」だ。静岡も浜松も、賛成も反対も関係がない。私は「再編の延期」を求めるべきだと思う。

暴走した機関車を止めるのは私たちしかいない。「反対派」はブレーキであるべきだ。惰性的な活動では機関車の暴走は止まらない。

 

どんな立場であれ、この現状を冷静に考えるべきだ。そして「どうしたいか」を考えてほしい。

 

静岡大学よ、そんなに急いでどこへ行くのだ。

*1:静岡大・浜松医大が統合合意「相乗効果で機能強化」静岡新聞 2019年3月30日 https://www.at-s.com/news/article/education/616992.html

*2:名大と岐阜大が法人統合に合意「東海国立大学機構」傘下に 日本経済新聞 2018年12月25日https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39334170V21C18A2CN0000/

*3:静大の”ブランド”という意味だけでなく

*4:学長は現行案について「変えるべき点はない」と考えているようだ。前回記事参照https://jimetravel.hatenablog.com/entry/2019/10/25/235919

10月23日対話集会で見えた学長のスタンス

2019年10月23日、水曜日。

14時から15時30分にかけて、静岡大学の再編・統合に関して学長と学生との「対話集会」が開催された。学部を問わずさまざまな立場・状況の学生が集まり、学長と直接議論することのできる機会となった。

石井学長は、これまでも真偽不明で不規則な発言を繰り返しているほか、独特の大学観を語るなどして学生や教職員をはじめ多くの関係者を困惑させてきた。今回もその「石井節」を炸裂させ、学生たちを驚かせた。

今回は、学長と学生の間で交わされた議論の一部を取り上げ、学長の現段階の考えなどについて見ていき、個人的な感想を交えつつ紹介していきたいと思う。

 

この日、特に議論となったのは以下のテーマである。今回は学長の考え方に着目していく。

1.「ゼロベース」発言の意図と学長の考え

2.再編後のサークル・部活はどうなる?

3.再編統合の静岡市へのメリット、地域に果たすべき役割とは

4.静岡と浜松

6.学長の「アカデミズム」観

7.学生は「当事者」か

 

1 「ゼロベース」発言の意図と学長の考え*1

Q 先日の市議会で「ゼロベース」という言葉が出たが、この「ゼロベース」とはどういう意味なのか

 「ゼロベース」というのは、大学の提案に縛られないでいろいろ意見を聞くという意味だ。大学の案が固まり方向性が決まっているが、協議会をやる以上はいろいろな案を聞いていく

Q この「ゼロベース」とは、静岡市と一緒に新しい案を作るという意味か

 静岡市の案を聞いてみないとわからない。静岡市の案にいいアイデアがあれば取り入れるが、それが無いようであれば大学の案で進めていく。それは話し合いで決めていくものだ。

 Q そもそも大学の方針がある一定以上固まっているのに、「ゼロベースでの議論」はできない。本当の意味の「ゼロベース」にはならないのでは。今は立ち止まって考えるべきではないか。

 時間をかけて考えることは「正しい場合」もある。まだ詰まっていない議論について考えるときは確かによいかもしれない。今の大学の案で変えていくべき点はないと考えている。これ以上時間をかけて何を変えていくべきかはわからない。

この発言により、学長の言うところの「ゼロベース」が、我々の考えている「ゼロベース」という意味とは大きく乖離していることが明らかとなった。すなわち、これからも議論は「結論ありき」であることに変わりはなく、自分を納得させる「代案」が出ない限りは現行案で進めていくぞという意思の表明だったのだ。

もっとも、現行案というのは、学長や推進派にとって「良い」案であるだけにすぎず学内の合意形成がうまくいっていない時点で「詰まっていない議論」、つまり学長の言うところの「時間をかけて考えるべき案件」であることは自明なのだが。

 

2.再編後のサークル・部活はどうなる?

 Q 部活等のチーム再編について。再編前のチームのまま大会などに出場できないことなどは問題であり、考えていくべき点だと思うが、学長はどう考えているのか。

 例えば吹奏楽部は再編後も東西合同で部活はできるが、その際コンテストでは大学の部ではなく、レベルの高い一般の部での出場になってしまう。ご迷惑はおかけするが、部活を理由にして再編統合を考え直すということはない。解決しないと先に進めないということはない。2000年に東西キャンパスが完全に4年体制になったときの影響のほうが強かった。考慮すべき要因ではあるが、そのために考え直すということはない。

静岡と浜松の両キャンパスにまたがる吹奏楽団は強豪として知られている。昨年もコンクールは県大会と東海大会で金賞、全国大会では銀賞という成績を収めている。*2もし静岡と浜松が別々になれば、この水準の維持が困難になることも考えられるし、演奏自体にも支障が出るのではないか。

サークルや部活は静岡大学の「文化」を構成している重要な要素である。それにも関わらず、「ご迷惑をおかけする」の一言で済ませてしまう点は不誠実と言わざるを得ない。

学長や推進派にとっては小さなことかもしれないが、静岡大学という大きなパズルは一つのピースを失うだけで成り立たなくなる。そしてそれは、ゆくゆくは大学それ自体の「競争力」にも響いてくるのではないか。

 

3.再編統合の静岡市へのメリット、地域に果たすべき役割とは

Q この再編統合による静岡市へのメリットは何か、地域に果たす責任などはどうなっているのか

来年の四月から「未来社会デザイン研究教育機構」を作る計画がある。これまで静岡キャンパスの学部はこれまであまり地域社会へのかかわりがなかった。再編を機に、静岡市の未来像を示していける大学に変えていくことができる。医療を取り込むことでよりよい提言ができるようになる。

Q 静岡市という小さな枠だけでなく県全体の地域を見ていくことが求められるなかで縮小することに意味はあるのか。縮小化していくことにメリットを感じない。

これまでの静岡キャンパスは、「地域社会への貢献は工学や情報学が担っているので、そちらにお任せする」というのが基本的なスタンスだったと思う。それゆえ地域創造学環ができたわけだが、各学部の大学教員のレベルでは新しい地域社会のあり方を提言できる人は(いないことはないが)多くはない。静岡キャンパスで独立して意思決定できることで責任を明確化でき、小回りが利く。この再編はむしろ「統合」の意味が強い

私が今回驚いた発言の一つであった。引用も太文字にしたが、要するに「現在の静岡キャンパスには(学長の目から見て)”地域の役に立つ”人間がいない」ということを明言したのであった。さらに、「工学と情報学の”地域貢献”とは具体的に何があるか」という趣旨の質問には、

工学と情報学は産業界と直結しており連携ができているが、静岡キャンパスを見ると、(農学部こそそうでないにせよ)全体的に卒業生の行く分野がばらけている。社会連携が十分にできていない

と話している。おそらく、浜松キャンパスから地元企業へ就職する学生が多いことや研究の面で直接企業とやり取りできることを言いたいのだろうが、そんなものは大学の持つ価値の一つでしかない。なにより、地元産業界との連携だけが唯一の「社会連携」や「地域貢献」の方法ではない。

 

4. 静岡と浜松

学長は再編統合のメリットのなかで、静岡と浜松の「考え方の違い」や「距離」を強調し、それらの要因ゆえに迅速な意思決定ができない(それゆえ再編すべきだ)と話しているが、それに対し学生からツッコミがあった。

Q 「静岡と浜松の考え方の違い」とは何か

浜松は「やらまいか」で静岡は「やめまいか」であることが多い。浜松のほうが新しいことや斬新なことをやろうという意思がある。

また、工学や情報学の分野では「納期」という概念があり、「コストと時間」が重要である。それに対して、理学や人文学は時間をかけて考えることが多く「時間に縛られるもの」ではない。

さらに、製造業中心の都市である浜松と県庁所在地の静岡とではカルチャーが異なる。学問の性質や都市の雰囲気の違いで議論に遅れが生じる。

Q 大学には「多様性」が必要では?お互いに違いを認め合い調整すべき

グローバル化のなかで「国民国家」があるのと同様に、同じカルチャ―の人間がまとまって意思決定したほうが効率がよい。浜松のことは浜松で、静岡のことは静岡で決めてそれを一つの法人に上げる、という形をとることは「多様性の尊重」と矛盾しない。

彼が盛んに言っているのは、こうした「地域の違い」だとか「距離」といったものである。たしかに、「意思決定が遅れる」要因にはなりうるかもしれない。だが、そんなものはインターネットの普及した現代社会では容易に克服できることだし、信州大学のように各地にキャンパスが点々としながらも一つの大学として運営ができている国立大学はある。

そして何より「迅速な意思決定」ばかり強調しているけれど、きちんと詰められていない案件を、同じ地域の同じような性格の人たちが「迅速」に決定したところで、成果として出来上がったものの質はそれなりのものになってしまうのではないだろうか。

すなわち、企業での製品の企画ならまだしも、大学という高等教育・研究機関の運営についての決定において、スピードばかりを重視すれば、結果として”不良品”みたいな教育や研究を大量生産することになるのではないだろうか。

スピードばかり強調しているが、「質」について言及がないあたりに浅はかさを感じずにはいられない。

 

5.学長の「アカデミズム」観

Q 社会的ニーズに縛られるようでは「学問の質」の低下の恐れがあるのでは。その点で「衰退」の危惧があるのではないか

 社会との繋がりについて意識していないアカデミズムがあるが、それに偏りすぎるのは問題。大学の中に縛られるのではなくアカデミックな研究から離れて「新しい社会をどう構想していくか」を考えていくべき。

アカデミックという言葉には「良い意味」と「悪い意味」がある。短期的なニーズに縛られないという点ではアカデミックであり続ける必要があるが、現状のアカデミックはあまりにも社会的ニーズを軽視しすぎている傾向がある。その点において社会的ニーズとの結びつきは、アカデミックの「衰退」をもたらすではなく新しい力を与えていくことになる。

ある意味でこの再編統合問題の「本質」はここにあると私は感じている。というのも、この再編問題が進むなかで推進派たちの根本を貫いている思想こそが、まさにこの「社会的ニーズ」という概念だからだ。

学問の自由が認められている日本においては、研究活動の自由は誰にでも平等に開かれている。そしてその研究活動は各々の関心に基づいて行われるものであるし、そこに「良い」も「悪い」も存在していないからである。

むろん、社会の状況などの事情で「求められる分野」とそうでない分野が出てくるのは当然だろう。だが、「社会に求められる分野」であっても時の社会がたまたまその分野を求めているだけであって、次の時代も続けて欲し続けるとは限らない。その一方で、いまは「求められていない分野」であっても、いずれ誰か必要だと感じる人が拾い上げて社会がそれを求めることになるかもしれない。そして、その日が来ても来なくても、基礎研究は絶えず行われているのだ。

役に立つか否かというベクトルだけで研究や教育の良し悪しを判断されたら、そもそもアカデミズム、いや、大学というものの存在意義自体も揺らいでしまうのではないだろうか。

工学は確かに役に立つ。工学と医学とのコラボレーションにより、これまでよりも多くの命を救えるかもしれない。

だが、それだけが「研究の価値」なのだろうか。今日や明日役に立つことだけが「社会的ニーズ」で、そんな「社会的ニーズ」を満たすことのできない学問や研究は駆逐されるべきなのだろうか。

そんな「思想」に変わりないことを感じて暗澹たる気持ちになってしまった。

 

6.学生は「当事者」か

Q この問題について学長はコミュニケーションをとっている、としているが学生に対してしていないのはなぜか。

この件について、学生に対して「説明不足」だとは思っていない。ホームページにあることが言えることのすべてである。そんなことを聞いても退屈だと思う人がほとんどではないか。

学部を超えた対話集会に学生を集めるのは難しいと考えている。4月や5月の時点で説明会を開いたところで人数は集まらなかっただろうし、もしやっていても、ただの「アリバイ作り」と言われるだけだ。

なるほど、「君たちどうせ来ないじゃないか」ということだろうか。そんなことを言うなら、むしろ開催すればよかったのではないか。

少なくとも3月の段階でこの問題に注目していた私なら行っただろう。そして、たとえ参加者が私一人だけだったとしても、学生に説明会の存在を周知したのち、きちんと説明する責任はあったのではないだろうか。

 

だが、学長の認識は「根本」が違うのである。以下の通りである。

 Q 学生としては静岡大学が「母校」である。大学の関係者の一人として認識し、尊重してほしい。学生についてどう考えているのか。

経営と教育は分離して考えるべきものである。学生諸君は「教育」についてどんどん意見してほしいと思う。だが、「経営」に関しては大学の執行部が判断するものであり、学生が直接関与する性質のものではない。

このように学生の意見を聞く集まりがまた開催されるならばぜひ参加したい。

学長にとって学生は、この問題の「当事者」ではないのである。すなわち、大学の経営に対して学生が文句を言う資格はない、ということだ。

確かに、民間企業を例に「一般の従業員は経営に口出しできない」という反論も十分想定できる。だが、民間企業であれば株主総会が存在し、それにより経営陣の「暴走」を食い止めることが可能である。

当然ながら、国立大学には株主総会が存在しない。そのため経営に責任が伴っていないのは明らかである。実際問題、すでに「暴走」している。

そして何より、経営の質は教育の質に影響する問題ではないだろうか。頓珍漢な経営をされれば頓珍漢な教育になるだろうし、その被害者となるのはほかでもない我々学生である。授業料を収め、静岡大学を構成するパズルのピースとして活動する学生を軽視する姿勢に心底呆れてしまった。

 

さて、ここまでが23日の主な議論である。これを見てどう感じただろうか。

時間が足りないと思えるほど活発に議論がなされ、皆で静岡大学の今後について考えるよい機会であったと感じる。私にとっては、学長と学生の間の「壁」を改めて感じる機会となった。

お時間をつくってくださった石井学長はもちろん、学長や当局サイドと連絡を取り合いこの会の企画や運営をしてくださった農学部の西川さん、そして参加された皆さん、ありがとうございました。そして、お疲れさまでした。

より議論は深めていく必要があると思う。これは、大学だけの問題にとどまらず地域社会全体を巻き込んだ大きな課題として考えていくべき内容だと私は感じる。

*1:昨月30日の静岡市議会において、田辺市長が「静大の石井学長から”静岡大学将来構想協議会”設置や、ゼロベースでの議論をお願いしたい」との申し出があったことを明らかにした。詳しくは、http://shizudai-saihen.lsv.jp/press/newspaper/

*2:https://shizuoka-windorchestra.com/schedule/%e3%82%b3%e3%83%b3%e3%82%af%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%87%e3%83%bc%e3%82%bf/

遠くへ行った星野源

はじめに

2016年、大学1年の年末。

私は実家で撮り溜めたあるドラマの録画を消費しながら炬燵の中で悶えていた。

そのドラマとは、秋から冬にかけて爆発的なヒットを記録した「逃げ恥」こと「逃げるは恥だが役に立つ」である。

まぁ星野源新垣結衣(以下ガッキー)が"契約結婚"をして共同生活をするお話なのだけれど、そのなかで、"やりがい搾取"などの社会問題をナチュラルに描いているところや、不器用な二人のキャッキャウフフな感じとか、ガッキーが可愛いこととか、ガッキーが可愛いことなどを理由に社会現象になっていたのは記憶に新しい。

特に、エンディングの星野源の「恋」と出演者らが踊る「恋ダンス」はブームになった。

 

そんなわけで、それ以前も少しずつ人気だった星野源は一躍時の人となり、もはや「知らない人はいない」スターになったのである。

 

だが、この時期から、私のなかにある「星野源観」との乖離を明らかに感じるようになった。そこに、お気に入りのAV女優やTENGA、自慰行為について熱く語る星野源の姿がなかったからである。

 

以下は、「推し」が遠くへ行ってしまったと感じている身勝手なリスナーの思い出を、ほぼ曲の発売の時系列で並べてみた話である。中身のあるものではない。

 

出会い

2012年の1月頃だろうか。

三谷幸喜清水ミチコが二人で話すだけのラジオ番組があった。

J-waveの23時50分ごろからの短い時間、録音だったが月曜から木曜とかで毎日放送していた。

この二人のトークが面白くないわけがなく、これが書籍化されていたものを北海道に住んでいたころに読んだ記憶がある。

もちろん東京ローカル。父親が死に、母の実家がある東京に引っ越してしばらくしてから、その番組の存在を思い出した。

それからというもの、毎日23時半くらいになるとラジオのスイッチを押すようになった。

ある日、ラジオの電源がオンのまま24時になった。

「どーもー、星野源でーす」

それが「彼」との出会いだった。

中学2年の冬である。

 

それは、星野源をはじめJUJU、ハマオカモトといったアーティストたちが毎日入れ替わりでパーソナリティを務める「ラジペディア」という番組だった。やはりこちらも東京ローカルだ。

もちろん新曲が出ればそのプロモーションもするわけだが、普段はというと、毎週パーソナリティたちが「お題」について自由に語るような内容だったと思う。

そんなラジオで星野源は毎週水曜*1の担当だった。

星野源自身を”面白い”と感じたのかは、今となってはわからない。

だが、リスナーから送られてくる低レベルの下ネタを読み上げながら、いちいちゲラゲラと笑う星野源の声を聴きながら私もゲラゲラと笑った。当時星野源が好きだった人たちは、変な人たちが多かったので(偏見)、面白い大人たちの雑談に囲まれているような気持ちになった。

 

中2の頃の私は、転校した東京の中学校であまり馴染めず、休み時間も居場所を求めて図書館に籠る日々だった。ろくに話せる相手もいなかったし、感じの悪い同級生からの陰口に耐えていた。

そんな生活のなかで、週一回の星野源の回があるから、なんとか生きようと思えるようになった。

星野源は、会ったことこそないけれど、私にとっては「漫画もアニメも大好きな陰キャの先輩で、下ネタも好きなお兄さん」だった。芸能人とか歌手とか、そういう「スター」みたいなのとは違うベクトルでリスペクトしていたのである。

 

さて、当時は「フィルム」が新曲として発売されたかされてないかという時期だったと思う。


星野源 - フィルム【MV & Trailer】/ Gen Hoshino - Film

冬の深夜。

うまく説明はできないのだけれど、この曲が「染み込んで」きた。

当時私はアース・ウィンド&ファイアーなどブラック寄りの音楽にハマっていた。それとは少し趣きが違うけれど、気づけば星野源の楽曲に引き込まれるようになっていったのだった。

 

ひねくれもの

それで、星野源になんでハマったのか考えてみたのだけれど、この男の書く歌詞というのは、なんというか「ひねくれている」のである。


星野源 - 日常【Music Video】/ Gen Hoshino - Nichijo

みんなが嫌うものが好きでも

それでもいいのよ

みんなが好きなものが好きでも

それでもいいのよ

共感はいらない

一つだけ大好きなものがあれば

それだけで

 とか、


星野源 - 夢の外へ【MV & Trailer】/ Gen Hoshino - Yume no Sotohe

自分だけ見えるものと

大勢で見る世界の

どちらが嘘か選べばいい

君はどちらをゆく

僕は真ん中をゆく

 とか。

私も昔からこだわりが強いほうだったと思う。

みんなが好きなもの、流行っていることに易々と乗らない、そんなタイプの子供だったし、何なら今でさえそんなものである。

特段悩んでいたわけでもないけれど、それでも段々と周囲に適合できていない自分というのに気づくようになった。

もちろん、人の「好き」は尊重すべきだと思う。

けれど、自分なりの「好き」を貫いてもいい、と星野源の楽曲たちは教えてくれた。

彼の生き方を見ていても、そんな良い意味での(?)ひねくれものというスタンスに変わりはないように思える。

楽しい地獄

星野源が倒れた、という記事がネットニュースを駆け巡ったのは2012年の冬だった。

レコーディング直後にくも膜下出血で倒れたのだ。

死んじゃったらどうしよう、と心から思った。

せっかく出会ったのに、これからだっていうのに、と思った。

 

幸いにも彼は、なんとか一命は取り留め「復活」を果たした。

復帰直後のラジオで自慰行為について語った彼の様子から、本当に治ったんだなと思った。

闘病生活は苦しいものだったと星野源のエッセイ『蘇える変態』(マガジンハウス)にも記されている。 

せっかく音楽も演技も軌道に乗ってきたのに、その最中で動けなくなってしまったことの絶望感はこの上なかっただろう。

 「地獄は相変わらず、すぐ側にある。いや、最初から側にいたのだ。心からわかった、それだけで儲けものだ。本当に生きててよかった。クソ最高の人生だよ。まったく。」*2

 この「地獄」を綴った曲が、「地獄でなぜ悪い」である。

youtu.be

同名の映画の主題歌として作られた曲だが、偶然にも彼が病気で倒れたタイミングで作ることになった。

この軽快さが、「地獄」をネガティブかつポジティブに表現していると感じる。

嘘で出来た世界が目の前を染めて広がる

ただ地獄を進む者が悲しい記憶に勝つ 

 個人的には、これが一番「星野源」っぽいと思う。

もちろんその前後の曲も好きなのだけれど、私が知っている「星野源的な世界」というのはこういう感じなんだよな。

「明るい闇」みたいな世界。

健康であってほしいけれど、もしかしたら病気というタイミングで変化があったのかもしれない。

「イエローミュージック」の追求

病気明けのラジオで、「知らない」を生演奏したときのことはよく覚えている。「あまり声が出ないかもしれないけど」と言いつつ、声を裏返しながらもフルで一曲歌い切った。

無理しないでほしいと思いながらも、そのプロ根性のすごさを感じた深夜であった。

 

2015年頃から、彼が作りたかった曲が形になってきているように思える。

例えば「SUN」は70年代のダンスクラシックを意識している。


星野源 - SUN【MV & Trailer】/ Gen Hoshino - SUN

詳しくないので解説できないが、ベースがすごく良い。

かつてYMOが挑んだような「日本のポップス」を作るという意思が感じられる。彼自身も細野晴臣と親交があるし、その点ではかなりリスペクトがあるように思える。

この時期の、アルバム「YELLOW DANCER」以降は日本ポップス音楽史に残したいと感じさせる楽曲が多い。

 

世間で「星野源」が認知されはじめたのはこの辺だ。高校時代、クラスメートに「好きなアーティストとかいるの?」と言われて「星野源”っていう人がいて”」と答えていた私だが、「っていう人」を外して語れるようになったのはSUNが出てからくらいだ。

 

2016年

春、星野源オールナイトニッポンをやると聴いて毎週聴いた。

そして、秋。


星野源 – 恋 (Official Video)

皆さんご存知「恋」である。

「逃げ恥」のエンディングでのダンスは社会現象化していたし、もはや星野源を知らない人はいなかった。

心地よいサウンドで、なおかつ彼が目指していたポップスのイメージにより近づいたのではないかと思う。みんなが星野源を知ってくれて私は嬉しかったよ。

その後も「Family song」や「ドラえもん」など、もはやリンクを貼らなくても聴いたことがある楽曲がヒットを続けた。

 

「POP VIRUS」も「恋」以降の星野源の世界観という感じでなかなかよいアルバムであった。さらに、ワールドツアーも予定されているそうだ。

インスタグラムも始めたし、Spotifyなど配信サービスでも彼の楽曲が聴けるようになったのは大ニュースだった。*3

健康で、さらにファンも増えていて、それは喜ばしいことだ。

でも、なんとなく寂しい感じもするのだ。

 

遠くへ行った星野源

私が出会ったのは深夜のローカルラジオである。もちろん彼がそれから「成長」してここまで来ているのは事実である。彼のなかでも変化はあっただろう。

だが、なんだかやっぱり「違う」と思ってしまうのだ。


星野源 – くだらないの中に (Official Video)

流行に呑まれ人は進む

周りに呑まれ街はゆく

僕は時代のものじゃなかうて

あなたのものになりたいんだ 

 という歌詞がある。

もちろん、彼は今でも自慰はするだろうしAV女優や漫画も好きだろう。

だが彼は「スター」になってしまったのだ。ラジオをつければ”会える”、あの下ネタ大好きのお兄さんではなくなってしまった。キラキラしたどこか遠くの世界へ、キラキラした人たちに囲まれて行ってしまったのである。

もちろん、「遠く」とは言っても”かつて”近くにいたわけではない。だからこそ、このモヤモヤが悔しい。

ツイッターで「ばかくん*4」の過去ツイートが晒されて炎上したことがあるけれど、世間の人々は、今の「きれいな星野源」だけでなく昔の星野源も愛してくれたらいいな、と思う。

 

別に今の星野源が嫌いというわけではない、という点はご留意いただきたい。

あくまで「僕のなかの星野源」が遠くへ行ってしまったと言いたかっただけである。それを踏まえて、これからも「スター」になった星野源を応援していくつもりだ。

*1:月曜だったかもしれない。途中で曜日が変わった記憶はある

*2:星野源『蘇える変態』(マガジンハウス)p138より

*3:結構保守的で、以前ラジオでリスナーに「楽曲配信すべきかどうか」意見を募っていたぐらい。「アイデア」が配信限定だったのも事件だった

*4:現在の公式アカウント。かつてこの名前でひたすら下ネタを吐いていた

大学入試改革の危険思想

大学入学試験の改革について議論が過熱している。具体的には、2019年度を最後にセンター試験が廃止され「大学入学共通テスト」への移行が予定されている。

だが、このテストの形式や決定までのプロセス、それに民間業者とのあからさまな癒着などが問題視されており、受験生がこの「改革」に振り回されることが懸念されている。

 

今回の本筋とは少しズレるが、簡単に問題点を整理してみる。

詳しい解説をしているブログやツイートもあると思うので、詳細などを知りたければそれらを参照されたい。

 

・記述式の導入

ご存じの方も多いかと思うが、センター試験マークシート形式である。

マークシート形式では何かしらの「答え」が設定されており、自己採点などもしやすい。センター試験後に志望校を決める目安にもなるし、何よりも採点に誤りがない。

だが、記述式の回答が導入されれば、自分が書いた内容が正解かどうかの判断が難しくなる。さらに、一回あたり50万人も受ける試験で、採点は一体どうなるのだろうか。

なお、採点はベネッセが行うこととなった。各種教育事業に携わる同社だが、果たして公平性は担保できるのだろうか。

 

・民間の英語試験の導入

文科省は高校三年に英検やGTEC、TOEFLなどの民間の英語試験を受けてもらうこととしている。センター試験では「読む」「聴く」という二つの能力が問われたが、それに加えて「話す」「書く」能力も評価したいと考えているためである。

だが、日本は広い。英検を始めとする民間の英語試験を受けられる会場は限られており、離島や山間部では開催されないことが多い。そして4月から12月の間に「二回」受けることとしている。

つまり、これだけで大学進学の地域間格差を拡大させる要因は十分に備わっているのである。

 

こうしたいくつもの問題点が明らかとなっている一方で、文科省は2020年度から強行したいと考えているようだ。

さて、柴山昌彦文部科学大臣の言動が批判されている。

ツイッターで「サイレントマジョリティは賛成」などという独特の見解を示した一方で、自身を批判する立場の意見を聞かないなど支離滅裂な言動を繰り返している。

先月の埼玉県知事選での応援演説の際に批判のヤジを飛ばした学生を強制排除するといった点では、”令和ファシズム”を担う安倍政権の一員にふさわしい態度を取っているといえよう。

 彼自身もツイートで、この大学入試改革についてその意義などを説明している。どれも大して説得力のあるものではないのだが、個人的に引っかかったツイートがあった。

 

確かに、暗記中心の受験勉強に対する批判は常々されてきた。受験生は知識を詰め込んできただけであって彼や彼女の「思考力」を見ることはできない、と。

 

ふーん。

そんなもん入試で見てどうすんの、と思う。*1

 

 

そもそも論にはなるが、まず、大学に入る理由は人それぞれである。

柴山氏以下文科省は、「自ら問題を発見し、答えや新しい価値を生み出す力が必要になる*2」からこそ「思考力・判断力・表現力」を重視したテストにしたいのだという。

 

何度も言うが、大学に入る理由は人それぞれである。

基本的に高校よりも専門的な分野について勉強したい人が入るものだという点に疑いはないと思う。

だが、入ってから学ぶ内容は分野によってそれぞれ違うし、やり方も各々違う。

研究やフィールドワークなどを通じて新しい価値を創造していく分野もあれば、地味であっても先人たちの築いてきたものをこつこつと丁寧に読み解いていく分野もある。どちらも重要である。

そして、大学での学びとその後の社会でどう生きていくかは、他でもない受験生本人が選択するものだ。「新しい価値」を重視しない分野の学びを望む人間もいるし、社会にとってもそういう人たちは必要な存在である。

 

そう考えると、「思考力が必要だ」なんてお節介甚だしいとは思わないか。むろん、「利権のためです」と言えないから後付けの理由だとは思うが、なんともパターナリスティックである。

 

試験の仕組みとしての設計の甘さとかはもちろんなのだが、こうした受験生や若者全体をナメるような態度が問題だと思う。

 

そして、このネオリベ*3むき出しの思想こそが学問はもちろん、人間にとって「危険思想」なのだ。つまり、極端な話「思考力」だとか「オリジナリティ」の無い人間の駆逐に繋がりかねないのである。

 

もちろん、「思考力」とかの類は生きるのに必要な”スキル”かもしれない。だが、そのように他者と「差」をつけて生存競争をしなければ生活ができない国は危険だ。

現状、就活産業などもまさに「競争」の世界だ。

本来は人間が最低限度の生活を送るのに「思考力」とか「表現力」「オリジナリティ」なんて不要だし、どんな生き方をしていてもよいはずだ。

あくまで「思考力」「表現力」「オリジナリティ」を持っていきたい、と願う人間がそのように生きればよいだけなのである。競争から離れて生きることも認められる必要がある。

 

もちろん、自民党ネオリベ政党であることは周知の事実である。

だが、行政側からの政策というアウトプットとしてネオリベ的思想が「公言」されたことは大きいと思う。それも、文部科学省から、である。

 

まあ考えてみれば、国立大学の法人化の流れなどを見ていても大学のネオリベ化は着々と進行しているのは事実ではある。

 

だが、いよいよ大学だけでなく「個人」の”商品化”が政府によって認められてきている。

受験生の未来を左右する大学入試改革だが、政府の「人の生き方」のスタンスも明らかになってきている。

本当の意味で自由に生きられる時代は終わりだ。

 

(参考)

「大学入学共通テスト 見切り発車でいいのか」(時事公論)

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/369024.html (2019年6月10日)

文部科学省「大学入学者選抜改革について」

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/10/24/1397731_002.pdf

*1:もちろん、クリエイティブさを要求するような大学の個別試験で見るのはわかるけど 

*2:「文部科学広報」http://www.koho2.mext.go.jp/199/voice/199_03.html

*3:ネオリベラリズム新自由主義