大学入試改革の危険思想
大学入学試験の改革について議論が過熱している。具体的には、2019年度を最後にセンター試験が廃止され「大学入学共通テスト」への移行が予定されている。
だが、このテストの形式や決定までのプロセス、それに民間業者とのあからさまな癒着などが問題視されており、受験生がこの「改革」に振り回されることが懸念されている。
今回の本筋とは少しズレるが、簡単に問題点を整理してみる。
詳しい解説をしているブログやツイートもあると思うので、詳細などを知りたければそれらを参照されたい。
・記述式の導入
ご存じの方も多いかと思うが、センター試験はマークシート形式である。
マークシート形式では何かしらの「答え」が設定されており、自己採点などもしやすい。センター試験後に志望校を決める目安にもなるし、何よりも採点に誤りがない。
だが、記述式の回答が導入されれば、自分が書いた内容が正解かどうかの判断が難しくなる。さらに、一回あたり50万人も受ける試験で、採点は一体どうなるのだろうか。
なお、採点はベネッセが行うこととなった。各種教育事業に携わる同社だが、果たして公平性は担保できるのだろうか。
・民間の英語試験の導入
文科省は高校三年に英検やGTEC、TOEFLなどの民間の英語試験を受けてもらうこととしている。センター試験では「読む」「聴く」という二つの能力が問われたが、それに加えて「話す」「書く」能力も評価したいと考えているためである。
だが、日本は広い。英検を始めとする民間の英語試験を受けられる会場は限られており、離島や山間部では開催されないことが多い。そして4月から12月の間に「二回」受けることとしている。
つまり、これだけで大学進学の地域間格差を拡大させる要因は十分に備わっているのである。
こうしたいくつもの問題点が明らかとなっている一方で、文科省は2020年度から強行したいと考えているようだ。
ツイッターで「サイレントマジョリティは賛成」などという独特の見解を示した一方で、自身を批判する立場の意見を聞かないなど支離滅裂な言動を繰り返している。
先月の埼玉県知事選での応援演説の際に批判のヤジを飛ばした学生を強制排除するといった点では、”令和ファシズム”を担う安倍政権の一員にふさわしい態度を取っているといえよう。
彼自身もツイートで、この大学入試改革についてその意義などを説明している。どれも大して説得力のあるものではないのだが、個人的に引っかかったツイートがあった。
正解のない課題にいかに取り組むかや、今非常に重要とされるプレゼンテーションの能力を十分に評価できないからです。RT @Shakariki10026: センター試験だとどうして駄目なのでしょうか?
— 柴山昌彦 (@shiba_masa) September 5, 2019
確かに、暗記中心の受験勉強に対する批判は常々されてきた。受験生は知識を詰め込んできただけであって彼や彼女の「思考力」を見ることはできない、と。
ふーん。
そんなもん入試で見てどうすんの、と思う。*1
そもそも論にはなるが、まず、大学に入る理由は人それぞれである。
柴山氏以下文科省は、「自ら問題を発見し、答えや新しい価値を生み出す力が必要になる*2」からこそ「思考力・判断力・表現力」を重視したテストにしたいのだという。
何度も言うが、大学に入る理由は人それぞれである。
基本的に高校よりも専門的な分野について勉強したい人が入るものだという点に疑いはないと思う。
だが、入ってから学ぶ内容は分野によってそれぞれ違うし、やり方も各々違う。
研究やフィールドワークなどを通じて新しい価値を創造していく分野もあれば、地味であっても先人たちの築いてきたものをこつこつと丁寧に読み解いていく分野もある。どちらも重要である。
そして、大学での学びとその後の社会でどう生きていくかは、他でもない受験生本人が選択するものだ。「新しい価値」を重視しない分野の学びを望む人間もいるし、社会にとってもそういう人たちは必要な存在である。
そう考えると、「思考力が必要だ」なんてお節介甚だしいとは思わないか。むろん、「利権のためです」と言えないから後付けの理由だとは思うが、なんともパターナリスティックである。
試験の仕組みとしての設計の甘さとかはもちろんなのだが、こうした受験生や若者全体をナメるような態度が問題だと思う。
そして、このネオリベ*3むき出しの思想こそが学問はもちろん、人間にとって「危険思想」なのだ。つまり、極端な話「思考力」だとか「オリジナリティ」の無い人間の駆逐に繋がりかねないのである。
もちろん、「思考力」とかの類は生きるのに必要な”スキル”かもしれない。だが、そのように他者と「差」をつけて生存競争をしなければ生活ができない国は危険だ。
現状、就活産業などもまさに「競争」の世界だ。
本来は人間が最低限度の生活を送るのに「思考力」とか「表現力」「オリジナリティ」なんて不要だし、どんな生き方をしていてもよいはずだ。
あくまで「思考力」「表現力」「オリジナリティ」を持っていきたい、と願う人間がそのように生きればよいだけなのである。競争から離れて生きることも認められる必要がある。
もちろん、自民党がネオリベ政党であることは周知の事実である。
だが、行政側からの政策というアウトプットとしてネオリベ的思想が「公言」されたことは大きいと思う。それも、文部科学省から、である。
まあ考えてみれば、国立大学の法人化の流れなどを見ていても大学のネオリベ化は着々と進行しているのは事実ではある。
だが、いよいよ大学だけでなく「個人」の”商品化”が政府によって認められてきている。
受験生の未来を左右する大学入試改革だが、政府の「人の生き方」のスタンスも明らかになってきている。
本当の意味で自由に生きられる時代は終わりだ。
(参考)
「大学入学共通テスト 見切り発車でいいのか」(時事公論)
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/369024.html (2019年6月10日)
文部科学省「大学入学者選抜改革について」