そんなに急いでどこへ行く

面白い話ができたらと思っています。

河野太郎にブロックされた

2019年7月1日のことである。

私は現職の外務大臣河野太郎氏にツイッターをブロックされた。

 

理由はよくわからないのだけれど、何か気に障ったツイートがあったのであろう。

 

 

可能性があるのはこの辺のツイートだと推測するが…。

それにしてもすごいエゴサ*1スキルだ。というのも、私はブロックされる以前には「河野太郎」という名前すら出していないのである。

河野太郎氏といえば、ユーモラスなツイートがたびたび話題になる。

今年、大阪で開催されたG20の際には「タローを探せ」と称して会議場の写真をアップした。公式アカウントながらもツイッターの一般ユーザーに対しても気さくに接する彼は多くの人に親しまれている。

エゴサ自体はよくしているのだろう、一般ユーザーに絡むときも自身へのリプライのみならず、自身の名前の入っているツイートを探し出し積極的に絡みに行っている。

 

そんな彼であるが、しかし、なぜ私をブロックしたのだろうか。

私のツイートで彼について言及したものは上の二つぐらいである。

確かに、彼の言動を肯定するものではない。だが、単純に気に障ったことを言ったからだとしたら問題があるのではないか。

これは「国会議員のあり方」から問い直すべき問題だと思う。

 

まず、国会議員とは何か。

国の立法府である「国会」に所属し、議会で議決に参加する権利のある人。

あえて定義すればそんなところだろうか。

 

さて、今回話題にしている河野太郎氏もまた衆議院に属する国会議員である。

議院内閣制において、行政権の主体である内閣は内閣総理大臣国務大臣とで構成される。内閣総理大臣は国会議員の中から指名され、国務大臣は総理大臣の指名により任命。その国務大臣過半数以上は国会議員であることが求められる。

 

そんな国会議員が「全国民を代表する選挙された」存在であることは憲法43条に規定されている。

さらに国会議員は特別職の公務員という扱いになる。

公務員は「全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」とこれまた憲法の15条に規定されている。

 

確かに政治家たる議員たちは、特定の地域や利益団体から立候補するし、選挙の際には彼らの声を議会に届けることが期待されている。

だが、彼らが「議員」になった日には、自分を選んでくれた「一部」のために働くのではなく「全体のため」に働くことが要請されるのである。

 

その「全体」であるこの日本には当然だが、自分を選んでくれなかった人たちもいる。自分を選んでくれなかった人たちとは意見も異なるだろうし、考え方も合わないかもしれない。

だが、そんな意見の異なる人間も同じ日本国民なのだ。

 

ブロックすること自体が問題なのかというと、そうではないと思う。

現実にツイッターの機能として存在しており、例えばトラブルなどを避けるために利用する分には全く問題がない。

だが、河野太郎氏が「外務大臣として」「国会議員として」アカウントを利用しているなかで、一国会議員として「反対の国民」の声をシャットアウトしてしまうその態度が問題なのだ。

百歩譲って、私が彼を誹謗中傷したならば理解はできる。

だが、私は「河野太郎」という名前すら出していないのだ。

こちらが彼の行動について少し言及しただけでブロックというのは、彼が全く国民の声を聞く意思がないことの現れだといえる。

 

河野太郎氏を肯定する国民だけが国民なのではない。

国民には様々な考えの人がいる。そこに「政治」が生まれることで、民主的な国家は成立するのだ。

もしそこまでのことを考えずにブロックしているのなら、かなり浅はかな人だと言わざるを得ない。

 

7月の参院選の応援演説では、安倍首相にヤジを飛ばした人が警察に囲まれる事態が発生したし、8月に入ると大学入試改革の問題について柴山昌彦文科省大臣にヤジを飛ばした学生も排除された。

 

この政権では、「自分に反対する国民は国民ではない」と言わんばかりに「排除」が続いている。

私がツイッター河野氏にブロックされた7月1日から2か月が経つ。

それからの間で物理的かつ暴力的な排除が公然と始まり、いよいよ我が国の「言論の自由」の死は近づいている。

*1:エゴサ―チの略